4月になりましたね。

桜も散り、柔らかい緑が桜の樹を彩る季節になりました。

今年は沈丁花の花の香りにも触れずに
芽吹きの季節を逃してしまったなあと思いながら
週末、近所を散歩していました。

「身体は自然の一部」という言葉を
ずいぶんと前に知ったけれど
その言葉の意味はぼんやりとわかっているようないないような。

それが小さな自然に触れた散歩の後、
ふと腑に落ちたのです。

4月から新年度のスタート。

年末年始とはまた違った、
社会的な意味を持つ始まりに
私も思うことが多く仕事に対して考えを巡らせていました。

全ての人が初めて経験することになった
コロナと共にある生活が終わることはしばらくなさそうですが
ここに来てようやく思えたことがあります。

それは「コロナのせいにしない」ということです。

もちろん、コロナの影響を受けずにいることは出来ませんし
社会の大きな渦の中にいることも理解しています。

それでも、その中でも「コロナのせい」という理由は
自分の責任を放棄したようにも感じますし

終わりのみえない状況の中「コロナのせい」と言い続けて
思考を止めてしまうのでは
何も始まらないと感じたのです。

「コロナのせい」と言いながら
時間を過ごすのはもう終わりにして
次のフェーズへ。

始まりと終わりは
線状のプロセスの中の点と点に過ぎません。

そして、自然というプロセスの中で
始まりと終わりをきっちりと区切ることは
不可能であり、

区切りをつけるのは
私たちの意識でしかないのかもしれません。

なんとなく、始まらない
同じ場所で足踏みをしている状態は
私自身が始まりと終わりを意識することが
出来ていなかったからなのでしょう。

「コロナのせい」というもっともな理由をつけて。

始まりと終わりという意識に相反して
身体には始まりと終わりという区切りが
生まれた時とこの世界を去る時にのみ存在します。

生と死の間のプロセス。
プロセスは存在そのもの。

自然もまた区切りというものがありません。
そこには繰り返されるプロセスが存在しています。

身体もまた区切りがなく、繰り返されるプロセスがあります。
だから身体を持って私たちは存在している。

身体も自然の一部という意味は
繰り返されるプロセスの中で存在しているからなのだと
私個人の理解ですがようやく腑に落ちました。

身体の不調や痛みも
自分自身の存在とともにあると考えることで
身体に起きていることの意味づけも
変わってくるのだと思います。

好き、嫌い、快、不快ではなく
身体ごと自分の存在を受け容れることができると
身体との一体感をより強く感じることができる。

そんなことをグルグルと考えながら
ヒックエトヌンクもまた新しい季節を迎えていきます。

クラニオセイクラルオステオパシーに心理ワークをプラスした
新しいメニューの詳細も近日中にアップしますね。

ではでは、今日はこのへんで。